星と石ころ日記

神戸在住。風の吹くまま気の向くまま。

 11年目

あの日から11年も経ったのか。何か変わったかな。


小学生だった長男がいまや受験生で、保育園児だった次男が高校生。子どもの背丈を見て初めて時の流れを感じるありさま。

だってわたしたちは老いていくばかり。


何度かいろんな災害が起こるたびに「あの阪神大震災を教訓に」と報道される。
少しは賢く早くなったのかな。


救援のヘリより報道のヘリのほうが早かったり、被災者が生き埋めになっていることを予測しながら低空飛行でヘリを飛ばして助けを呼ぶ声をかき消したり、救助犬を引き連れた外国からの救援部隊が一番のり、なんてことはもうないのかな。


被災地の取材にハイヒールを履いてきてヒンシュクを浴びるマスコミや、「東京で起こらなくてよかった」とTVで言い放つおエライ先生は、さすがにもういないよね。


いつも一番知りたい情報が、知りたい人に届かない。さっきまで隣で笑っていた人が生きているのか死んでいるのか。どこかにいけば飲める水があるのか、いつまで待てば食べ物が手に入るのか。ビルの倒壊や高速道路のへしゃげた姿ばかり報道するマスコミにはなかなか気づいてもらえない。


・・・でも、11年まえの今日から数ヶ月、本社が全壊したにもかかわらず、1日も欠かさず新聞を発行し続けた神戸新聞社は偉かった。

本紙とは別に、ほとんど毎日はさみ込まれるうすっぺらい新聞があった。そこには毎日身元が確認された遺体の、氏名・年齢がびっしり載せられていた。

わたしたちは毎日毎日、「知っている人の名前が載っていませんように」と祈りながら、小さい名前を端っこまで読んだ。そして1週間しても名前が見つからなかった、これはどこかで生きているぞと探し当てた知人もいた。大抵の人は家が全壊、または全焼し、小学校の体育館で生活されていた。彼らは電話も通じず(今ほど携帯電話が普及しておらず)自分たちの消息を人に告げることができずで、全壊した家の前の板ッキレに「○○(名前)はみんな生きています。××小学校にいます」と書いて立てかけてあったりした。


電車も西宮あたりから不通だったため、歩いて神戸入りして親戚の消息を尋ねて来られて、やっと再会できて泣きながら抱き合っておられた人もたくさんあった。


職場まで片道2時間歩いて通っていた頃、公園で炊き出しの豚汁をご馳走になったこともあったなあ。あれは確か四国から来られたボランティアグループの方たちだった。



そんな体験をしたわたしたちも、もう備えさえしていないんだよ。人間て、ほんまにアホやね。


いつかはあの震災も、語る人もいなくなる時代がくるかもしれないけれど、災害なんて誰の身にも起こりうることとして、大切なことを思い出す日にしてもいいよね。


なんだかなあ、もうそんなことしか言えなくなっちゃったよ。



 引越しその後


う〜ん、エクスポートやらインポートやらあまりさわったことないところをクリックしていたら、今までのエントリー全部こっちに引越してきちゃった。


でも本当は、コメントやTBも一緒に移動できるって書いてあるんだけどできない。ファイル形式が違うんかな。ここまでできるならせめてもらったコメントも持ってきたかったな。


今までコメント、TBをくださったみなさま、ちゃんと保存してありますゆえお許しを。
しかし、便利やなーパソコンって。(今さら 笑)