言霊(ことだま)音霊(おとだま)
神道の思想の中には言霊(ことだま)音霊(おとだま)信仰というものがある。
真心のこもった明るい言葉は自ずと人を元気づけ、反対に人を傷つける言葉は、相手ばかりでなく、自分の心までもすさんだものにする。これを、ブーメラン効果と言う。
それと同様に、きれいな澄んだ音は予想をはるかに越えて人の気持ちを癒してくれる。
(後略)
ある神社のHPで見つけた言葉。
言葉は本当に難しい。
昔昔、あるバンドの非公式ファンサイトの掲示板で体験したこと。
そのバンドメンバーのおじいさんが死の間際に、
「やりたいことはすべてやった。あとは着地するだけだ。」
と言われて亡くなったという話を聞いた。
好きなように生きて自分の思ったことをやり遂げて、でも他人から愛される人物だったらしい。
その話を聞いたわたしは掲示板に、
「ひとは生きてきたように死ぬ。だからいい死に方をしたかったらしっかり生きないといけないね。」
という意味のことを書き込んだが・・・・
「年長者のくせに、死を美化してすすめるようなことは言わないでください。」とお叱りを受けた。
へ?なんでそうなるの?
真逆の意味に捉えられて驚くとともに、自分の語彙のなさ、表現力の不確かさを嘆いたものだった。
言葉は怖い。
少し前に、わたしの大好きなバンドのボーカルさんのMCが物議を醸したことがあった。
「あった」なんて軽く書いているけど、今でも忘れられない出来事。
あれも話した彼の真意とはまったく正反対に受け取られていた。
なんであの言葉をそんなふうに理解するのかまったくわからない。
むしろ明確な悪意を持って聞いたとしか思えない。
それがどれだけ彼と、彼を好きなひとたちを傷つけたことだろう。
それでも言葉はすばらしい。
“この明るさの中へ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美しさに耐えかねて
琴はしずかに鳴りいだすだろう”
(八木重吉 詩集『貧しき信徒』より「素朴な琴」)
以前にもここに書いたが、この詩に対して松本梶丸さんが「心の琴線に触れる」ということについて以下のように述べられている。
もとより琴線というものがあるのではない。
しかし、秋の美しさに耐えかねて鳴りだす琴のように、真実の言葉に触れれば自然に鳴りだす琴線を、人間はだれもが胸の奥にもっている。
生きるということは、この琴線に触れる言葉との出合いではないだろうか。
生きるということの喜びや感動は、本来、もっと素朴なところにあるのである。
実生活で「言葉」につまずきそうになるたび読み返す。
わたしの琴線は錆びていないか。
わたしの言葉はあなたの琴線に届いているか。
そして・・・
言霊(ことだま)と音霊(おとだま)を操るアーティストのかたたちに、
ちょっとだけ嫉妬するのです。
それはたいそう困難を伴うことでしょうけどね。